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大連雑学事典

2008年3月までは、大連在住の総経理が現地レポート、その後は日本からの回顧録や中国語トピックス。 過去の記事は右下太字の「大連雑学事典ハンドブック」を参照してください。

大連の日本人(留学生)

大連に住む長期滞在日本人を、次の5つのカテゴリーに分けた。

1、日本から派遣された駐在員
2、現地採用の日本人従業員
3、永住覚悟の自営業
4、留学生
5、コールセンター


今日は 4、留学生だ。

現地採用日本人の生活が厳しいと書いたが、一番生活が苦しいのは、留学生かも知れない。
だけど、苦学生って言葉があるように、学生ってのは貧乏なものだと昔から決まっている。オレだって、学生の頃は3畳一間の万年床の上で、インスタントラーメンをすすっていたものだ。(学生時代に、数ヶ月間インスタントラーメンばかり食べていて、栄養失調で病院に担ぎ込まれた奴がいたっけ)
学生には夢があるから、今は貧乏のどん底でも耐えられるのさ。

留学生と言うと若者ばかりを連想しがちだが、大連の留学生には、年配の方も結構多い。定年を迎えて、第二の人生として何かを勉強したいとの意欲から、大連に留学して中国語を勉強している人たちがいる。
とは言っても、やっぱり若者の方が圧倒的に多いのだが。

留学生も何種かに分けられる。

1、日本の高校を卒業して、進学先として大連の大学を選んだ大学生
2、現役大学生の交換留学生
3、1年あるいは2年間の語学研修生。

学生については、よく分からないので、自分で感じた雰囲気を書いているので、間違っていたらごめん。
1は、留学生として極一般的な印象だが、大連ではあまり多くないのではないかな?
2は、日本の現役大学生が、半年とか1年間とか一定期間大連の大学で中国語の勉強をするのだが、日本の大学の単位として認定される。
大連で圧倒的に多いのは、3の語学研修生だろう。これは、冒頭書いたように、若い人が多いが年配の人もいる。

語学研修生を受け入れている大学は沢山あるが、筆頭は「大外」(ダーワイ)と略される大連外語大だろう。ここは、大連市内の中心街にあるので、しっかりと勉強の意思を持っていないと、夜の歓楽街をさまよい、勉強どころではなくなる危険性を孕んでいる。これからダーワイに留学しようとしている人は、志を強くもって、肝に銘じておいて欲しい。
大連理工大学は、市の中心部から離れているので、勉学には適しているだろう。他にも大連交通大学、遼寧師範大学などがある。
開発区には、大連民族学園、大連大学があるが、それ以外の大学にも留学生はいるのかも知れない。

「大連留学生の一日の生活費」と言う新聞記事があったので、一部を紹介しよう。ある休日の生活費だ。
彼のこの日は、朝食はパン3元、昼は日本料理屋で定食35元、夕食は鍋や麺で9元だったので、1日の食費は47元(700円)だった。この他に薬屋で頭髪剤30元を買ったので、一日で77元使ったことになる。

別の女性は、朝食はパン2.5元、昼食は中華料理の麺と小龍包8元、夕食は自炊で5元、ペットボトル500mlが1.1元、この日の食費は、15.5元。チャイナドレスを仕立てたのでこの日120元払って受け取った。オーダーしたときに前金200元を払っているので、このドレスは320元と言うことだ。

寮に入ってこんな感じが、若者留学生の生活パターンのようだ。
熟年留学生となると、様相が一変するのだが、これこそ人それぞれだ。

コメントから抜粋
青云さん

大外の留学生

本科生としての留学生は、確かに真面目な人が多く、それなりに真剣に大学に通っています。
しかし、殆どの留学生は語学留学で、お金さえ出せば入学できるクラスに属し、授業態度も人それぞれです。
ひとクラスが25人前後で、構成は日本人5割、韓国人4割、他インドネシアや北欧が1割でしょうか。年齢構成のほうは、10代~20代7割、50代以上1~2割、他1~2割ぐらいだったように思います。
社会人経験がゼロもしくは、アルバイトか派遣等の職歴しかなく、日本にいても未来が見えて来ない、だったらひとつ海外留学だ!という若者のタイプが10代~20代に多く、取り敢えず日本脱出で、別のところからスタートすれば、このまま日本にいるよりも明るい未来が掴めそうだと思い留学してくる人々です。
日本で、ニートしているパラサイトなどより、100万倍もまともで、人生にあがきながらも、切り開いていこうとの意志が感じられます。もちろん、大連に来ただけで、人生が好転するわけではなく、壁にぶつかり苦労して、現実と闘って結果を出さねばならないことは、日本でも大連でも変わりはありません。
お気楽留学生の筆頭は、駐在員の奥様方でしょう。ひとクラス2~3人いまして、授業態度は概して真面目で、久々の学生生活を謳歌しています。この人たちは何かを賭けて、何かを為すために大連に留学しているわけではありませんので、最初から最後までマイペースです。同じようで、少し違うのは定年退職された50 代以上の方々です。この人たちは、これからの生活ベースをどうしようかと考えながらの留学ですので、奥様方より大連で生きていくことに真剣です。
最も人数が少なく、或る意味クラスで浮いた存在になり易いのが、働き盛りといわれる年齢の35~45歳ぐらいの人です。
精神的にかなりきつい想いをしながら、大連で生活している人も多いのではないかと思います。
留学生もお気楽から砂を噛んでいる人まで、それぞれだなァと思います。

コメント

思い出すなぁ

私もでっつさんいうところの「苦学生」でした。あのころ(1995年当時)のレートは1元=12円ほど、当時は「生活費は1日50元」と決めていたので、1日600円で生活していたわけです。今じゃとても考えられませんね。往時の生活で最も節約したパターンを考えると
朝:パン、肉まんなど(約3元)
昼:中国人学生食堂で食事(建前上は違法だったらしい。でも西洋人留学生を含めてみんなやってたね)。米飯2両(4毛)、おかず3品×1.5元で計約5元。
晩:近くの湖南料理店の弁当(といってもぶっ掛け飯)5元
〆て13元也。
というところですが、「1日50元」というのはあくまで「1日当り」でして、下宿代、水道光熱費、交通費などを含めるとあっというまに超してしまいます。
↑のパターンでもまだまだ贅沢だと言われればそれまでですが・・・。

  • 2006/08/03(木) 11:58:01 |
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  • BEO #-
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大外の留学生

本科生としての留学生は、確かに真面目な人が多く、それなりに真剣に大学に通っています。
しかし、殆どの留学生は語学留学で、お金さえ出せば入学できるクラスに属し、授業態度も人それぞれです。
ひとクラスが25人前後で、構成は日本人5割、韓国人4割、他インドネシアや北欧が1割でしょうか。年齢構成のほうは、10代~20代7割、50代以上1~2割、他1~2割ぐらいだったように思います。
社会人経験がゼロもしくは、アルバイトか派遣等の職歴しかなく、日本にいても未来が見えて来ない、だったらひとつ海外留学だ!という若者のタイプが10代~20代に多く、取り敢えず日本脱出で、別のところからスタートすれば、このまま日本にいるよりも明るい未来が掴めそうだと思い留学してくる人々です。
日本で、ニートしているパラサイトなどより、100万倍もまともで、人生にあがきながらも、切り開いていこうとの意志が感じられます。もちろん、大連に来ただけで、人生が好転するわけではなく、壁にぶつかり苦労して、現実と闘って結果を出さねばならないことは、日本でも大連でも変わりはありません。
お気楽留学生の筆頭は、駐在員の奥様方でしょう。ひとクラス2~3人いまして、授業態度は概して真面目で、久々の学生生活を謳歌しています。この人たちは何かを賭けて、何かを為すために大連に留学しているわけではありませんので、最初から最後までマイペースです。同じようで、少し違うのは定年退職された50代以上の方々です。この人たちは、これからの生活ベースをどうしようかと考えながらの留学ですので、奥様方より大連で生きていくことに真剣です。
最も人数が少なく、或る意味クラスで浮いた存在になり易いのが、働き盛りといわれる年齢の35~45歳ぐらいの人です。
精神的にかなりきつい想いをしながら、大連で生活している人も多いのではないかと思います。
留学生もお気楽から砂を噛んでいる人まで、それぞれだなァと思います。

  • 2006/08/03(木) 16:14:45 |
  • URL |
  • 青云 #1dIKDyB.
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皆さんそれぞれ大変ですね

のらりくらりと生きている小生には、とても足元にも及びません。

全然、話は変わりますが、地元ホームセンターのチラシに「電撃蚊取り器」が載っていました。 小売価格980円、でっつさんの掲載された写真とほぼ同じデザインでした。 うろ覚えですが、乾電池で最終電圧1000v? 意味が良くわかりません。 レクチャーして下さい。

  • 2006/08/03(木) 22:15:06 |
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  • hexue #0gXy5ln6
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次が楽しみ

次は、コールセンターですね。
3000字を超える深い洞察と、含蓄に富む考察の文章を
期待しています。

うそです、自分でもそんな長文書く自信ありませんので、でっつさんらしいエスプリに富んだ締めくくりをお願いします。

  • 2006/08/03(木) 23:17:21 |
  • URL |
  • 青云 #iM8IU0qU
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次回はラストですか

今回の特集、息を詰めるように見守ってきました。
中国情報は、本やインターネットで収集していますが、結局は人づてですから。現地で生の体験をしていらっしゃる、でっつさん、皆さんのコメントはとても興味深いです。
次回はいよいよコールセンターですね。
でも、私はこの「コールセンター」自体がよくわからないのですが。
よく「カンカン様いらっしゃいますか」と掛ってくる、あれですか?
いつも「いいえ、いません」と答えることにしています。

  • 2006/08/04(金) 03:45:56 |
  • URL |
  • カンカン #J7gMWUUA
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発信と受信と

さしでがましいかも知れませんが、「コールセンター」について。
コールセンターというのは早い話が電話とPCが数十台規模で置いてあってコミュニケータ(主に女性が多い)と呼ばれる人が電話の受け答えをするところです。発信と受信両方の業務があり、借金の取立てやら通信会社の販促(マイラインで○○は如何ですか?とかいうやつ)などが発信業務、あとカード会社やら通販会社やらで「サービスセンター」という名目でユーザーからの電話を受けるのが受信業務です。
コールセンターのおきて(僕がやっていたところでは)としては「私はコールセンターのものでござい」ということを電話の会話の中で明かしてはならず、「わたくしは○○社の社員でございます。」と答えなければなりません。また、よく消費者金融や株のコールセンターのCMでは制服を着たおねぇ様がずらりと並んだ絵を写してますが、あれはあくまでイメージ映像、実際には私服のフリーターやパートのおば様たちが飲み物片手にやっていることが多いと思われます。
この仕事の特徴としては特に苦情が多い、「申し訳ございません」を口癖のようにして謝りたおす、という局面が多いですね。そういう職種のせいか、慢性的な「売り手市場」という感じがあり、この種の「サービスセンター」に電話すると、たいがいすっとつながらず「ただいま込み合っております」といって待たされることが多いのは、要は人手不足なんですね。そりゃー朝から晩まで苦情の電話とってたらすぐやめたくもなるわなー。
(すべてのコールセンターがこうとは限りません。ようはどういう部署に配置されるかです。)

  • 2006/08/04(金) 07:11:32 |
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  • BEO #-
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コールセンターは長文になります

>BEOさん
私も貧乏学生でした。いや、むしろ貧乏で金が無いことを自慢していたフシさえありました。学生時代に貧乏な奴ほど将来大物になるんだぁ、なんてね。
結局大物にはならず、平凡なサラリーマン人生を送っています。

>青云さん
詳しいですね。本文を凌駕しているので、転載させていただきます。
ところで、学習態度が一番いい加減なのが奥様だとしたら、一番真剣なのは、企業から派遣された語学研修生でしょう。
数年後には、中国ビジネスに参入することを前提に派遣されているので、中国語がビジネスレベルでマスターできないとその後のサラリーマン人生に明かりが射すことは無い。

>hexueさん
大連で15元(200円)の物が980円ですか?高いですね。
電撃の仕組みは良く分りませんが、電子ライターやガスレンジの着火に使われている、圧電素子を利用したものだと思います。圧電素子は電圧を加えると、微小に伸縮する素子、電歪素子とも言われるセラミックです。これを利用して、小さな落雷を起こしているようなものでしょう。

>青云さん
次回は、コールセンター自体の説明にスペースをとってしまったので、3000字は超えてしまうでしょう。グダグダと無駄に長い文章になってしまいましたが、読んでくださいね。

>カンカンさん
恐らく「カンカンさんいらっしゃいますか?」の電話のことだと思いますよ。
コールセンター編は、長文になりますが、読んでくださいね。

  • 2006/08/04(金) 07:21:08 |
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  • でっつ #m/aUcm4U
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留学生は

俺も80年代後半に北京で3年もやりましたよ。(ここの常連の中では多分一番古いんじゃないでしょうか)

当時は最近と違って、北京だってそんなに便利じゃなかったし、大学自体が雰囲気が全く違いましたね。何しろその当時の中国の大学生は、数も少なかったですが、授業料等は免除(つまり国が丸抱え)で、卒業すれば政府幹部候補生ですから、それだけに全国から優秀な若者が集って来ていましたね。

留学生はと見れば、当時一番人数が多いのが日本人で、当時は韓国はまだ国交が無かったので一人もいませんでした。日本以外でまとまって来ていたのは、解体前のソ連からの留学生で、国費留学(当時のソ連には私費留学は無かったらしい)の大学院生クラスの学生で、これは実に優秀な連中でした。その他はアメリカ、ドイツ、オーストラリアといったところです。俺の留学先の大学では、AA諸国の留学生は受け入れしていなかったようで、一応「先進国」というところからの留学生がほとんどでした。
大学によってはむしろAA諸国の留学生が多く、東南アジアやアフリカ諸国、北朝鮮の留学生なんてのもいましたね。
まあ、いずれにせよ留学生専用大学の「北京語言学院」(現語言大学)を除けば、各校の留学生は数十名程度でもので、今みたいに留学生がひしめき合っているような状態ではなかったですね。

費用はと言えば、当時は「漢語進修生」(つまり中国学習が専門で、学位の取得とは無関係)の留学生の場合、年間学費と寮費を合わせて2,000米ドル、その他は主に食費ですが、外籍教師と留学生の専用食堂で食べても、確か月間200元ぐらいで足りたんじゃないかな。本当に安かったです。
ただそれでもゼイタクするヤツはいて、しょっちゅう外資系ホテルに行ってメシ食ったりすると、それは当時も日本並みに高かったですね。
俺はその当時、金が無かったわけではありませんが、自分に以下のような「原則」を課していました。(あくまで「原則」ね、絶対ではない)
(1) 外資系ホテルは日本からの客が来た時以外、立ち入らない。
  そういうところで飲食するときは、日本からの客におごらせる。
(2) 「友諠商店」で買い物しない。
(3) タクシーに乗らない。
これだけ守れば実に安上がりな生活でしたよ(笑)。

そうそう、当時は前にも書いたことがありましたが、日本円から両替すると先ず「外貨兌換券」という特殊な紙幣に換えてくれて、中国では外国人は原則的にこれを使わなければならなかったんですが、これも「蛇の道はヘビ」でちゃんとブラックマーケットがあって、1.3倍から最高は1.8倍ぐらいの闇レートで普通の人民元に両替できました。ただ、当時は50元とか100元の高額紙幣がまだ無く、最高が10元札ですから、数万円も両替するとぼってりと厚い札束(と言っても10元札)になって、ちょっと金持ちになった気分でしたよ。
因みにその当時の為替レートでは確か1元=30円台でしたが、1元の価値も今よりずっと高くて、北京の地下鉄は確か2角だったし、路線バスなら1角ぐらいの料金で、街の大衆食堂で麺が1碗3、4角で食えた時代です。

そんな北京の街中をヨレヨレの緑色の軍隊ズボンに紺色の中山服の上着を引っ掛けて、愛用の天津製「飛鴿牌」の自転車を転がし、いっぱしの土地っ子気分でしたね。貧しくも良い時代だった(笑)。

きのう、パで従業

きのう、パで従業するはずだったみたい。

  • 2006/08/06(日) 12:26:55 |
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  • BlogPetのジョン #-
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ベールが次々に剥がされていく

>遼寧省営口市在住さん
遼寧省営口市在住さんのベールが次々に剥がれて行きますが、そのたびにすさまじい人生の足跡が見え隠れします。
1980年代後半と言えば、89年の天安門事件が思い浮かびます。あの当時は、日本企業の駐在員は、みんなとっとと日本に帰ったはずです。
私の知人が、田舎町だったので、帰るに帰れず、腹をくくって操業を続けたら、お前は日本人だが本当のパンヤオ(友人)だと、株を上げたと言っていました。
そういう時期に北京に留学していたのですか?
素晴らしい経験ですね。

また、別の友人(中国人)は、当時は大学のキャンパスで男女が手を組んで歩いているだけで退学になりかねない雰囲気だったが、今じゃ学内で平気でキスをしていると嘆いていました。

ともかく、そういう時代に留学していた人が、どんな風に日本を見ていたのか関心があります。また、機会がありましたら、是非、その辺もご披露ください。

  • 2006/08/07(月) 22:21:38 |
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  • でっつ #m/aUcm4U
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80年代の不真面目な方ですけど(^^;

遼寧省営口市在住さんの話、懐かしいなぁ。当時、私も北京にいましたから。それで89年のときは、当日早朝、日本大使館から人が来て「帰国したいやつは勝手に帰れ」って言ってたくせに、昼になったら今度は大型バスでやってきて「乗らないと一切の保護はしないぜ」って無理やりバスに乗せられて空港に連れて行かれたのを今でも思い出します。でも帰りの飛行機は後からやってきた大企業の駐在員たちが横取りして乗れず、結局、次の日の臨時便まで丸1日空港で足止めされてひどい目にあったなぁ。

  • 2006/08/08(火) 02:00:12 |
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  • 青蛙大王 #-
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「天安門事件」ねぇ

>でっつさん
>青蛙大王
いましたよ、確かに北京に。これ話し出すと、いくら書いても足りないんですが、まあ、それは別の機会に譲るとして…、それで、青蛙さんと同じ体験を俺もしたんですね。
「事件」(軍の北京市内進入)が始まったのが6月3日の夕方で、それから翌6月4日の早朝ぐらいの間に「激戦」があったので、「六四事件」とも呼ばれ、中国圏メディアではその方が一般的です。
当時、俺は郊外の学校にいたので実際の状況は目撃していませんが、それから以降はほとんど学校の構内に缶詰め状態でした。
その後1、2日は仲間と出来る限りの情報収集に費やしました。と言っても今と違ってインターネットなんてありませんから、せいぜい日本の短波ラジオ放送と、街中から帰ってきた連中の話(これがまたガセネタが多くて、確度はかなり低かった)の聞き取りぐらいのものでしたが、結論は「最も緊張した状態はすでに過ぎたようだが、しばらくは軍の戒厳状態が続くだろうから、帰国を希望する者は帰国し、残留する者は暫くは大学構内から出ないことを条件に残留も可」ということで、俺は野次馬気分も手伝って、やはり暫時残留を決めていた日本語講師数名と居残ることにしていました。
そうして6月7日までは学内にいたのですが(同校の留学生は俺以外、6日までに全員が帰国してしまった)、その日、日本大使館から、「“帰国勧告”が出たので、全員帰国して欲しい。空港までのバスは大使館で手配する。」という電話連絡がありました。年輩の日本語講師が、「それは“命令”ですか?」と聞いたら、「“命令”ではないが“勧告”なので、ぜひ従っていただきたい」という回答でした。その後、「“勧告”だって言うんだから、まあ仕方がねぇわな」と翌日の全員帰国(と言ってもすでにわずか5名)を決め、その日の晩は「籠城」に備えて取って置いた日本製の食品や酒などを持ち寄って、「打ち上げパーティー」と相成りました。学内に住んでいる中国の教授たちも来て、緊張感の中での不思議なパーティーでしたね。中国側は「今後については、まだ判らないが、まあ大学が無くなるわけでもないし、多分2、3ヵ月で落ち着くだろうから、元気で戻ってきて欲しい」、日本側は「そうだな、きっと戻ってくるよ」というような会話をしていたことを憶えています。

そして翌6月8日午前、大使館の手配したマイクロバスが来て、それで空港に向け出発。途中、用心のため、軍の部隊の多くいるところは避けて通っていたようですが、それでも要所要所には銃を肩にして立哨する兵隊の姿がありましたが、見たところあんまり緊張感は無し。それでも市民の通行人は通常よりもかなり少なかったです。

空港附近は軍隊の姿も無く、普段と何も変わらない様子。到着すると、運良く次の東京行き臨時便に乗れると言う話でした。もうこの時点で、日本人もずいぶん少なくなっていたらしく、順番待ちをする必要も無かったようです。
面白かったのは、航空会社がどさくさで現金の持ち合わせの無い人のために、パスポート提示などで「日本到着後に後払いでも可」というサービスをやっていたことでした。
それと臨時便だったためか、「エコノミー」とか「ファーストクラス」とか分けないで、来た順にどんどん乗せていたので、俺は何と生まれて初めて「ファーストクラス」の席に座ることができました。シートが幅が広くて、前後の間隔も長く、何と快適だったこと。これが最初で最後(多分)の経験でしたね。

そんなわけで、「居残って見届けてやろう」という計画はあえなく霧散してしまいましたが、実際には報道関係やごく少数の在留日本人(ビジネス関係、留学生を含む)は帰国しなかったようです。
俺の場合は数人の団体行動だったので、そこまで無理を押し通すつもりも無かったので、まあ帰国ということになったわけです。

でっつさんが書かれた、帰国しなかった日本企業で有名なのは、北京の「松下ブラウン管工場」ですね。ここは総経理が「地元従業員もいるのに、この程度のことで日本人幹部が帰国して操業を停めるわけにはいかない」と断固として操業を続け、その後中国政府から絶賛されたとのこと。こういう態度には、俺もメーカー魂を感じますね。
「企業戦士」なんて言葉には虫唾が走るが、思い出したのは、かつて東南アジア某国で頻繁に軍事クーデターが起きても、当時の商社マンたち(年代からいうと多分、元日本軍隊兵士)は、事務所の窓に土嚢を積んで、「あの銃声なら、まだ遠いから大丈夫だ」とか言いながら、平然とマージャンを打っていたとか。そういうサムライたちはもういなくなったんでしょうね。

あれからもう10数年、中国も日本もすっかり変わってしまいましたね。本当に「良くなった」かどうかは、大いに疑問があるところですが。

すごい経験されてますね

天安門事件の時はテレビ見ながら「こんなひでぇー国には一生行かんとこ」と思ったものですが、いまやどっぷりつかってしまっております^^;。

私が遭遇した事件で一番大きいものと言えばやはり「阪神淡路大震災」でしょう。当時神戸市須磨区に住んでいた私は東京方面へ脱出しようとしたのですが、交通網が寸断されており(須磨区の板宿~西宮間が不通だった)、一瞬その区間を「徒歩で」通過しようとしたのですが、距離は20km以上あるし、バイクで様子を見に行った父が「長田近辺は空襲直後みたいな状況」というのに恐れおののき、結局大迂回ルートを取りました。ルートは
須磨区~(タクシー)~明石~(山陽電鉄・各駅停車)~姫路~(播但線)~和田山~(山陰本線)~京都
というもので、新快速に乗ればものの1時間で着くルートに半日を費やしました。
この年(95年)はオウムによる地下鉄サリン事件もあったし、今にして思えば「インターネット」という言葉がマスコミで大々的に言われだしたのもこの年が最初ではなかったかと記憶しています。

  • 2006/08/08(火) 22:11:28 |
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天安門事件のとき

>青蛙大王さん
天安門事件のときに北京留学生ですか。空港で1日足止め。
大変でしたねぇ。
でも、それで中国を嫌いにならないで、中国関連の仕事をなさっているのは立派です。

>遼寧省営口市在住さん
「六四事件」と言うんですか?
中国では、何でも日付で済ませることが多いですね。「三八」婦人デーとか「五一」労働節、「十一」国慶節とか、365個使い切ったらなくなってしまいます。
情報収集といえば、この5~6年のインターネット情報の充実は目を見張るものがありますね。それに対して、ラジオの短波放送では、情報量は限られるでしょう。
このような緊迫した環境での「打ち上げパーティー」って、連帯感が強まるんじゃないですか。
最後の「ファーストクラス」などと言わず、自費で乗ってみて下さい。といっても、欧米線なら価値があるでしょうが、中国線じゃ僅か3時間ですから勿体無いですね。
ともかくすごい経験をされたものです。

>BEOさん
わたしは、そのようなひどい災害の経験はありません。
せいぜい、空港で10時間待たされた程度のものです。

  • 2006/08/11(金) 17:29:18 |
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